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代宗(だいそう)は、唐朝の第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫(り よ)。 == 生涯 == 生母呉氏の実家は有力な貴族であったが、謀反の嫌疑により誅滅された。このような血統を引いた李豫であったが、祖父である玄宗に素質を認められ、広平王に封ぜられた。粛宗が皇帝として即位すると兵馬大元帥に任じられ、郭子儀らと共に安慶緒により占拠されていた長安や洛陽などを奪回した。このとき回紇族を援軍として招き入れていたことが、後々の外患の原因の一つとなっていく。また、安史の乱の残党勢力討伐のために河北三鎮などの節度使の援助を求めたことから、節度使の権力を増長させてしまうことになった。 758年(乾元元年)、粛宗の皇后張氏と宦官の李輔国により立太子され、762年に玄宗と粛宗が相次いで崩御すると皇帝として即位した。しかし、朝政は李輔国が掌握していた。国政を自ら掌握しようとした代宗は、宦官である程元振を抜擢、謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこの粛清も、結局は程元振が朝政を掌握したに過ぎず、続いて重用された宦官である魚朝恩の場合も同様であった。このような内廷での粛清は、宦官の権力増大の原因といわれている。 外交面では763年(広徳元年)に、吐蕃の侵攻により長安を一時的に奪われ、章懐太子李賢の孫の(在位:763年11月18日 - 763年11月30日)が帝位に据えられる事件が発生している。これは宦官が軍権をも握り、武将の軍功への論功を抑制するなど、武官を冷遇したため辺境防備が弱体化した結果である。 その後、代宗は財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な政策を実行したが、抜本的な財政健全化は実現しなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「代宗 (唐)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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